テープ起こしストの脱・テープ起こしスト論

 私はテープ起こしスト兼大層な読書家である。本さえ読んでいれば幸せな人間である。書痴と言っても過言ではない。だが現代作家の書いた作やいわゆるベストセラーは全く読まない。読む価値がないからだ。これらの作品はマスメディアによって大喧伝され、皆が何となくよいもののような気になっているだけのまがいものが大半であり、しかもそれらは日に何百と世に送り出されてくる。そのような膨大なものすべてに目を通すのも、その中から珠玉の逸品を探し出すのも物理的に不可能である。ならば長年の厳しい評価に耐え抜いて現在にも残る作品を読むのが最も合理的かつ理性的な方法なのである。

 また、私はテレビジョン・映画・漫画等の映像メディアを通した作品も全く見ない。これらの作品は主に視覚を通して感受するものである。視覚というのは甚だ限定的で、場面場面の人物・風景等を強制し、受け手の自由な想像力を矮小化させるだけで無益どころか害毒と言える。聞くところによると、将来国を担う高校生や大学生、果ては現在国を支えている社会人までもが通勤・通学電車の中で漫画を読みふけっているらしい。この国の将来を思うと大変嘆かわしいことである。このことを隣家に滞在する米人留学生のマイケル君に議論されたらきっと私はいたたまれないであろう。

 とにかく私はそういう理由でテレビジョンもない静寂とした書斎で日々、テープ起こしの作業がないときは、もっぱら世界文学全集や、我が国のものでは夏目漱石、森鴎外、清少納言等を読み、また世界の宗教・科学・文化等についての学問的書物、文献に親しんでいるのである。

 そのようにして暮らしていてある日、何が起こったのだろう。今までそんなことをしたことがなかったのだが、突然私は極太万年筆を握り、原稿用紙に文字をひたすら書き出した。いわゆるところの小説を書いたのである。まさに小説の神が我が体に乗り移ったかのように私は書いたのだ。よどみなく筆を走らせ、一気に原稿用紙300枚の作品を仕上げた。

 で、書いてみると人情で、何となしにこのまま筐底奥深くしておくのは惜しいと思い、知り合いの副編集長T女史の在籍する出版社・Wブックスをアポなしで訪問。我が小説を読んでいただいた。懸賞に投稿してフェアなレースに参加するより、コネをたどったほうが早道であると算段したからである。小説の内容は、ある少女が魔界に迷い込み、さまざまな経験を経て成長していくという物語で、我ながらすばらしい出来の物語である。また、いろいろなキャラクターの神を描き、日本人の多神教観というものを通低させているところなど、我ながら憎い世界観の暗示だと思った。このような物語は世界文学全集にも、漱石・鴎外・菅原孝標女も書いていない全くの新しいものであると思い、これでうまいこと出版と事が運べばテープ起こしももうよして、一躍新進気鋭の作家先生、印税生活、夜は銀座でねーちゃんたちとひっひっひ、などと想像してにやにやしていると、目の前で原稿を読んでいたT女史が中途で読むのをやめ、「あんたねえ、これ、以前大ブームになったアニメ映画の内容と全く同じじゃないの。登場人物の名前だけ変えたってこれじゃしょうがないでしょ! こっちだって忙しいんだからね!」と金切り声を発しながら私の大作をドサッとほうって返した。日々、岩窟王のように書斎でテープ起こしと昔の名作や学問書ばかり読みふけって世事に疎い私はそんな映画はつゆ知らず。かと言って、そ、それは偶然の一致で、などと抗弁しても恥の上塗りなので、照れ隠しに一昨日思いついた一発芸。これをやればどんな不機嫌な人でも即座に「だっはっはっは、何じゃそのポーズは、がっはっはっは、ひょうきんだねえ、君は、貴君って人あ、あっはっはっは」となること受け合いの、すなわち顔面の神経を半分麻痺させ、足をがに股に開いてやや腰を落とし、手を手刀形にして腕を足のつけ根に沿って落としてからすばやく肩まで引き上げると同時に「Comăneci!」と叫ぶ芸をやって見えを切り、Tさんの顔をどや顔でのぞき込んだところ、予想に反して相手はくすりとも笑わず、逆に「何か言いわけでもするかと思ったら何じゃわりゃけんか売っとんのか! しかもギャグまでパクりか!」と何だか知らないがえらいこと怒り出したので私はほうほうのていで四つんばいで逃げ出し、我が陋屋の前で立ち上がって手の平の泥やガラス片やガムを払いつつ、小説の神は僕には通底してないんだなとしょんぼりしながら郵便受けを見てみると、テープ起こしの神から依頼のカセットテープが送付されていた。
(この項、終わり)

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