テープ起こしストの節約論

 朝、目覚しの音もなく自然に目覚めた。朝といってもまだ外は真っ暗けっけの4時半で、普通の人間が朝と言われてイメージする朝より少し早い、いわば時刻的・縦割り行政的な朝だ。で、どうしてそんなに早く起きるの、起きれるの? あっ、起きられるの?と自分に尋ねているのはだれでもない、自分自身なのだが、それは今起きたばっかりで寝所にひとりでいるせいで、そのうちイチニのサンッで寝床からはい出し、立て続けにハイライトを2本ばかり吸っているうちに時が流れて人々が活動し出す時間となり、起きてきた家人に会ったり、オフィスや商店・工場、工事現場に赴いて同僚・顧客に会うなどすれば自然にそのうちのだれかと、「おぁよっす」「ぉあよぅ」「けさ、4時半に目が覚めちゃってさあ」「へえ、どうしてそんな早くに?」という会話になるのだから、少し早目に起きた理由を何も自問自答しなくても、そのうちだれかが尋ねてくれるでしょうと思われるかもしれないが、そんな可能性は全くない、僕は孤独なソーホー、テープ起こし屋の独身独居人。だから僕は自分で自分に尋ねなくてはならないのでそうしてる。あっ、そうしている。

 どうしてこんなに早く目が覚めたのだろう。夕べ6時とか7時とか、そういう早い時間に寝たのかといえばそうではない。寝たのは、まあ眠りに落ちる寸前に時計を見たわけではないので正確には言えないが、寝床に入った時間から推量するに、恐らく午前1時くらいだろうし、別に何時に寝たのかと聞くにしても眠りに落ちた瞬間の厳密な時間を聞いている人はいないのだから、いちいち、正確には言えないが、などと断りを言う自分のいやらしい性格は改めたい。

 多分、僕は最近テープ起こしの仕事が全く途絶え、かといってオフィスや商店、工場・工事現場で頭脳あるいは肉体を酷使していないから、疲労というものが余り肉体の中に蓄積されないため、ちょっと眠るだけですぐ目が覚めてしまうというのが真相だろう。と、一応、早起きの原因が自分の中でのみ解明されたのはいいが、その後にすることがない。解明されてしまったがためにすることなくなったとも言えるが、そんなことは時間の問題で、遅かれ早かれすることがなくなることは確実の僕は仕事の途絶えた時間持ち人。それではまたやることを考えなければなあと、とりあえず寝床で上体を起こし、あぐらをかいてセーラムライトを吸いながら、何かすることはないかと考えつつ眼鏡を捜した。

 言い忘れていたが僕は近眼鏡を使用している。最近、それが壊れてしまったので新調しなければなあと思っていた。現在完了。壊れっぷりを具体的に言うと、眼鏡の右弦とレンズ枠部分をねじで接合している部分のねじ穴が折れてしまったのだ。それまでもオーフンしばしばねじが緩んだ。その緩んだねじを締め直さずに使用し続けていたら、ねじやねじ穴がひん曲がって、もはや締め直すこともできなくなって眼鏡全体がぐにゃぐにゃになってしまって不快だなあと思いつつも使用していたのだけど、それはまあ不快だが使って使えないこともないので使用し続けていたのだけれども、現在のように接合部分が完全に破壊されてしまうとつるは片弦。無理にかけてもちょっと顔を動かすだけで落下してしまい、もはや眼鏡を顔に固定することはできなくなってしまった現在の僕の眼鏡。

 どうして眼鏡がそのような悲惨な状態になってしまうのかというと、僕は寝る前に本を読む習慣があるので、眼鏡をしたまま床につく。そして本を読んでいるうちに、いつしかあやかしの睡魔が脳内に訪れ、そのまま瞬時に眠り、そして目が覚めたときに眼鏡が、まあ顔周辺の布団やまくらのあたりにあれば納得するのだが、どういうたぐいの妖精のいたずらか知らないが、首・背中、甚だしきはしりの下敷きになっていたりするのである。そういう迫害的扱いを受けていればいかな頑丈な眼鏡であっても、ねじが緩んでひん曲がり、接合部という一番眼鏡のもろい部分が破壊される可能性が高いのはわかっていただけるであろう。読んでいた本がぐしゃぐしゃになっているのもあわせて推測されるであろう。

 しかしこう説明すると「だったら眠くなったら本を閉じ、眼鏡を外して、しこうしてから眠りにつけばいいじゃん」という人がいるのも承知しているのだが、そういう人の言いたいのは、あなたはそうやって眠くなったら一たん体を起し、眼鏡を外し、さらに電気を消すという動作をしてから今一度睡眠体勢に戻ってもすぐに眠れるのかもしれないが、僕は眠くなってから別の動作、本を閉じる・眼鏡を外す・電気スタンドのボタンを押す等の行動をとると、せっかく訪れた睡魔がどっかへ行ってしまうんだよ。その就寝における肉体的差異は、あなたは日々、オフィス・商店・工場・工事現場で不断の活躍をしている人だから、その営みによるそこはかとない疲れがおいそれと睡魔を逃さないのでしょうけど、さっきから言っているように僕はここのところ無職に等しく、日々これといって肉体や頭脳が疲労するようなことをしていないから千載一遇、一度訪れた睡眠のチャンスを逃してしまうと、またそこから何時間も、去っていった睡魔か別の睡魔かわからないが、とにかくもう一度、いつ来るやもしれない睡魔様を、本を再読しながら待ち、本に飽いてしまったら漠然とした静寂の中、一人身の寂寞感や仕事の減少による将来への不安等の陰うつな妄念にさいなまれるんだよ。だからおれは眠くなったら眼鏡を外す等の行動はしないんだよおれだって本を閉じて眼鏡を外して頭上に置いておけば本も眼鏡も体の下敷きにならないことぐらいわかってんだよ電気スタンドだって消せば電気代がその分安くなるしひいては地球エネルギーの無駄遣いを減らすことに貢献できるっていう格好つけた言い方だって知ってるんだよだけどおれはそうするとおれ自身・おれという一個の不幸な魂が夜な夜な非常に苦しい思いをするから言わば仕方なくそうしてるんであって別に本を閉じたり眼鏡を外したりすることの効用を知らないからしないってわけじゃないんだよおれだってもう40だそんなしれたことを鬼の首をとったように忠告してそれを聞いたおれがああそうかそうすればいいのか知らなかったよなんて言って感心・得心するとでも思ってたのかよばかにすんなよこの卑劣漢のひょっとこやろうめニャローメ天才ボンバカめ。……。

 以来、その眼鏡を片弦はないがレンズはまだ生きていてもったいないので何とか使えないかなあと、いろいろと工夫してみた。一例を挙げるとレンズの間の、鼻骨を利用して眼鏡を支える部分を下にずらして、やわらかい鼻自体を挟み込んでみた。そうすると固定的にはしっかりして、さすがにロデオ・マシーンは無理だけど、普通に顔を動かす程度なら落下しない。だが機能面でいうと近くのもの、例えば座って手元の本などを読むときはいいが、テレビなど、ちょっと遠くを眺めるときは上目遣いすなわち裸眼状態なので不便この上ない。一生、手元だけ見て生きていくのならいいが、そんな人生は嫌だ。しかしこのように、眼鏡が片弦になってもいじましく使い続けようとしていること自体がもう手元見人生になってる? まずい。じゃったらこんな、手元しか見れない、あ、見られない腐れ眼鏡をうじうじと所有し続けず、一刻も早く廃棄処分して、遠く明るく幸せな未来まで見ることができる新品の眼鏡を購入しよう。今は仕事も途絶えた僕だが四十男一匹、新しい眼鏡を購入するお金くらい、死んだ気になれば出せるぜ。それで今後一生、手元しか見られない人生から脱却できるなら安いもんだ。でも新しい未来幸福眼鏡を購入しても、片弦手元眼鏡は、恐らく捨てずに机の引き出しにしまっておくであろう僕のいじましさは、パソコンのごみ箱を空にしないそれに似ている。似ている?

 とまあ、そんなこんなで眼鏡の新調することを決意。じゃあきょうは眼鏡屋さんに行くことにしよう。と、さまざまな自問自答の末、きょうというデイ、何とかやることができて、何だか生気が身体中にわいてきたような感じになったところで時計を見ると6時。外はようよう明るくなってきたが、眼鏡屋さんが開店するまでには少なくともあと4時間はあるだろうから、さてそれまで何をしようかと再び考える僕、仕事のない独身独居人の一日はまだ初まった、あっ、始まったばかりだ。

 ※この文章は一部文芸的部分を除き、標準用字用例辞典に準拠した表記をしております。統一感のある表記のテープ起こしはITテキストサービス(合同会社ハルクアップ)へ。